南北朝の頃(1300年代中頃)、当地一帯は花園妙心寺の荘園であり、その政所として建立されていた報恩寺が、法雲寺の前身であると言い伝えられています。
江戸時代に入り、寛永十九年(1642)に村岡山名第三代・矩豊(のりとよ)公入部に際し、小集落であった当地を開発し街割を整え村岡藩の藩都と定めた折に、山上に在った報恩寺を街の中心に移し、寺号を法雲寺と改め、山名家の菩提寺と定めました。
宗派も臨済宗から矩豊公篤信の日蓮宗に改め、更にその後、天台宗へと改宗し寛永寺末に属しました。
山内の御霊屋(おたまや)には山名氏太祖・義範公(新田義範)以後の各当主の位牌も奉安し、村岡陣屋跡には歴代村岡山名藩主の御廟があり、大名格式の名残を今に伝えています。